動かないものに

おそらく過去ログにも書いているはずなのだが、私はあまりプラモデルやフィギア類には興味がない。

外見の姿がそっくりというだけのものは面白みがないと思っている。

不器用でも動くものには興味を感じてしまう。

だから

動かないものに

動きをあたえる瞬間が好きでたまらない。

結局そこがこうじて技術者になったわけだし、ソフト屋になったのだ。

目標の場所

目標を立てて

そこに目指して歩いて

到着した場所は

目標の場所とは全然違う場所

ということが大半である。

それでかまわないのである。

どこかには到着する。ということだけで十分によいことである。

腐敗

すべては結果的に腐敗する。劣化する。

これは悲しい感情はあるものの、悲しむべきことではない。

腐敗は当然のように起きる。日常のこと。

人生経験が少なかったから、すべての物事が腐敗することがよく見えなかったに過ぎない。

どうすればいいのか? それはわりと単純。

腐敗するのを前提とした上で、新しい物を作るなり育てるなり置き換えることを予定としておく。

私自身が他に置き換わることも含めてである。

P.S.

予定として準備していなかったということは多々あり、そうであれば残念ながら目の前で何かが腐敗してそのまま壊れる姿を見ることにならざるを得ない。

でもそういうことはよくあることだ。

それを失望ととらえないようにして(ある意味、あきらめの境地で)それを見続ければいいのだ。

ただ、そこであきらめきれないで、もがくのは醜いことだ。

P.S.2

あきらめられないのなら、予定をきちんと立てておくか、さもなくば腐敗をどうにかする代案を示すべきなのだ。

よく考えること というのはそういうことなのだ。

意識の迷宮

意識の迷宮には、他者への伝達困難という特性がある。

迷宮を一緒にめぐってあげることも手伝ってもらうことも出来ぬ。

外からがんばれとか、りきむなとかいうのが出来ることのせいぜいである。

だから迷宮にいる人は、あまり直接的な答えを外に問うても意味がない。

答えは自分で探すしかない ということと、外にいる人は手伝ってくれなくても悪意があるわけではないということ。

P.S.

まぁそう言ってもいろいろ各種のリラックス手法や集中力アップ手法、リラクゼーション手法とかはあるのでツールとしてならいろいろ手はある。

無理に一緒に迷宮をめぐろうとするとまぁ共依存みたいな話になりますな。

誰からも聞いたことがない話

あなたは

誰からも聞いたことがない話/物語/技術

というものを作ることができるか?

過去に似た話があったなとか、10年前にそういう話の流行があったなとか、アイデアは初耳だが枠組みは似た話だなとか。

本当に枠組みから、「聞いたことがない話」というのは、めったになく、かつそれは存在していないのではなく、目の影に見えたと思っては消えるような錯覚のような形で散らばっているものなのだ。

そういうものは姿形を固着するという段階ですでに大仕事。

本当に困難なものなのだ。

P.S.

思いついた作り話を繋げれば、聞いたことのない話になるというわけではない。

むしろそういう話は、どこかで聞いたような話になるものなのだ。

自身など捨て石でもよかろう

自身など捨て石でもよかろう。

だからこそ日々の仕事とかできるのではないか。

自身が何より大事と思ったらなにもできなくなるだろう。

P.S.

まぁそう言っても疲れるときはあるんだけどね。

がんばりすぎ

がんばりすぎはいけないが、一方でなまけていたのは認めるべきだ。

その上で、いつでもなまけることはできる ということを理解する。

そこを理解すれば、がんばることも遊ぶこともたやすくなる。

ないものねだり

わりと昔からそう。

ないものをほしがる。

ただねだってはダメだと学んだから、多くの場合自分で作る。

でも本当にないものは、作ることは著しく困難。

ずいぶん落胆している。

声が大きいこと

声が大きいことは、いいことである。それに疑いはない。

ただ、大きな声がいいことを言っているとは限らない。

本当にうまくやった人は、喋る必要がないから声は小さくても済む。

うまくいかなかった人こそが声が大きい という可能性もある。

声の小さな人のこともよく聞くべきなのだ。

本当にうまくいった人は、喋る必要がないから声は小さい。

結果

結果だけを見ると皆、

あたりまえ

と言う。

結果に至る試行錯誤は、わかりにくくなるから誰も言わない。言うにしても整理してから言う。

試行錯誤過程の苦しさは味わった者しかわからないものだ。