2014/05/28

一つの案件のほうは基本的に順調。一つの案件のほうは手が付けられない状況。自身で失敗を味わわないとおそらく本人達は理解できないのだろう。

ある意味、失敗を味わったことのない人の動き方をする。そうなのに言葉の端々に忌避と恐れ、自己欺瞞が見え隠れする。そういう人には関わらないのが賢明であると改めて思う。

社会に出たての頃、ある会社に入った(大手電機の子会社。ただ上から10本の指くらいには入るとこ)

いくつかの部署を回ったあと、あるとんでもない部署に回された。

社内でも「あの人の下とかかわいそう」と全社的に言われている部署。

今になって思うとなぜそこに回されたのかは、自分でもなんとなくわかる。自身の社会経験の無さが招いた結果だと思う。

私はドラマ半沢直樹は見たことないが、噂で聞く分には「成功は自分の功績、失敗は部下のせい」という上司がいろいろ出てくるらしいが、その部署の上司もそんな感じだった。

問題が起きたら、部下の誰かがスケープゴートになるまで終わらない会議が始まる みたいな感じ。

それは、上司も同僚も部下も参加者全員が敵になり責任をなすりつけあう会議。

ただ、そういうところで鍛えられたおかげで参加者全員が敵という会議でもひるまなくなった。

そしてそういうやり方をする人への対応の仕方も習得した。

そういう時の対応の仕方を習得したので、普通の会議では逆に余裕が出るようになった。

若いときの苦労は買ってでもしろ ってのは、今思えば確かだと思うが、一方で学生時代に苦労していたらその時の苦労はなかったのかもしれないと思うと、やっぱり若いときに苦労していなかった報いはある程度受けざるを得ないのだろう。

その頃に比べれば今回の手をつけられない人への対応は全然楽に思える。むしろそれに巻き込まれている他の人らを気の毒に思う。

よい経験になればよいのだが。

ノイズと意味

世界にノイズなど存在しない。

人に認識できなかったものが結果としてノイズと呼ばれる という観点がある。

すべての事象に原因がある という観点なのだが、ヒトがそれを処理できる必要はない。

すべての原因を探索するという行為をヒトがやったら、完全に能力をオーバーフローする。おそらく精神が保てない。

省略する能力、忘却する能力が知的能力として重要なのは言うまでもない。すべてを探索するというのはむしろ機械の仕事である。

一方で、ヒトが大発見と呼ぶものは、そのノイズに見える事象の中に含まれることも多い。

だから、ヒトと機械の中間の性質を持つ知的機械は、すべてのブレイクスルーとして期待されているのだ。

それがいつ作られるのか。個人的な感触で言えば、もうそれほど遠い未来ではない。

知的機械をSFやアニメでしか語れない時代は終わりに近いはずだと感じている。

(自己のTwitterから再録追記)

作られるモノ

非常に複雑に作られるモノは、作り手の想定を超えだすタイミングがある。

作った途中のモノが作り手に話をしだすタイミングだ。

このタイミングは非常にセンシティブでナイーブな状態でありきわめて不安定なものなのだが、ここを超えると急速に落としどころが見えてくる。

ここまでが本当に大変である。

(自身のTwitterからの再録)

人柱という言葉は嫌いではない

人柱というと、忌み嫌う語句と言われるが、私は人柱という言葉は嫌いではない。

以前にも書いたように、そのくらいの覚悟なしに何をなしうるというのだろうか。

私の時代にわりとよくある歌や小話に「社会の歯車になりたくない」とかいう言葉がよく混じっていたものだが、私にはピンとこなかったのである。

責任のかかる部分を仕切る。いいことじゃありませんか。

ええ、デスマーチも山ほどやってきました(自責のデスマーチも含めて)。成人してからの1/2くらいはデスマーチ案件にかかわっていたような気がする。

おかげで慣れた。

デスマーチを怖がらなくなった。

結果として、デスマーチの臭いに敏感になって、その状況の回避や解決がうまくなった。火消し役として、デスマーチ案件が回ってきたことも多い。

人は、ことの大小はあっても、何かの人柱をやらされることになるのです。

人柱を忌避するのではなく、何の人柱をやりたいのか選びなさい。

ものまねとパロディはあまり好きではない

TVでものまね番組がたまにありますが、あまり好きではありません。

マンガやアニメでたまにパロディネタがメインの作品がありますが、あまり好きではありません。

そういうのは、日常会話で周りを楽しませる笑いのネタにするとかなら全然かまわないのですが、そういうパロディ的なものを作品や商品として出すのは、作者の創造力の底の浅さが見えるような気がします。

たとえば、森進一のまねをして「お袋さんよ~」とか歌ったとしても、「いえ、これは森進一のものまねではなく私のオリジナルキャラクタ西川五郎です。だから別のこともできるんです」とまで言い切ってもらったほうがいい。そういうのはインスパイアであって、元ネタの力を使っているわけではない。元ネタを知らない人でも楽しませることができるのなら、それは応用による創造だと思う。

サブカルチャーは、他人をまねて、まねられて育っていく文化なので、ヒントやアイデアを自分なりに吸収して再構築していくものならいくらでも結構。新たなその先が作られていると思う。

ものまねとパロディは、元ネタの持つ元々の力とのギャップを楽しませるものなので、一発芸として楽しませたとしても、元ネタの印象を壊しながら楽しませるものなので最終的には先が残らなくなる。元ネタがお菓子なら、ものまねとパロディは、お菓子のトレイに残った残りくずをいただく行為のような気がしてならない。

2000年代って何かそういうパロディもの的なものばかりが多いような気がするのです。

Twitterは気楽なのが利点ではあるのだが

Twitterは、思いつきのメモ書きとして気軽であるという利点はあるのだが、残ることが保証されないというのは少し困った特性だと思う。

でも人の日常の99%以上は、残る必要のない流すべきものであるから 下手に残さないというTwitterの考え方が野暮と思っているわけではない。使い方の問題なのだ。

1%未満の「しばらくは残したいアイデア」というのをキープしておく方法を再整理しておく必要があるって話だ。

ちなみに1%の「しばらく残したいアイデア」だって、一定期間だけ残したいのであって、永遠に残すみたいな試みは無意味だ。

人はそんなに多量の情報を管理などできない。残しても腐るだけである。

ある程度長期間残したほうがよいという合意が取れている情報は、学者さんが歴史書に残しているわけだし、それ以外の情報は、ある期間で霧散させるのが自然なのだ。

(ちなみに私は著作権延長は反対派かな。作った人でなく、その家族をその権限で食わせる必要はなかろう)

残したいという人の感情はわかるんだけどね。世界遺産とかも延々に残し続けるのは、単に現時点の文化を不必要に複雑化するだけだと思う。

話はそれたが、とりあえずブログの書き込みの仕組みをもう少し手軽に書き込める仕組みに手直しせねばだな。

努力

努力は報われて欲しいと思う。

ただ、努力はむくわれるべき とは思わない。

すべての努力が常に成果に繋がる、なんて都合のいい話はない。

努力はその時々で発生させて消費し続けるべきものだ。

一つの成功を期待して、山ほどの失敗と未完成品を作り続ける力が欲しい、というのなら理解できる。

失敗がかさむと努力の継続がつらくなるのはわかるから、そのつらさをものともせずに継続する力は欲しいものだと思う。

 

他者に

他者に

「えらい」

とラベル付けしてもらわないと、生きていくのがつらいというのはわかる。

でもつけてもらわないと前に進めないようではダメだ。

そんなもの付けなくても前に進むことはできるし、付けられずとも前に進む人に必然的に「えらい」という評価が付く。

ここでは世界一

誰でも、ここ(この範囲)では自分が世界一 という場所は欲しいものだし、必要なものだと思うのです。

まぁ強い人ほどその範囲が広いわけだけど、どんなに弱い人でもこの中(この場所、この範囲、この分野)でなら自分が世界一と思える場所はあると思うのです。

逆に本当に世界範囲で自分が世界一ということを持ってしまった場合、それはよいことで楽しいことだけど結構面倒なことだと思います。

一方、ここの範囲で世界一になりたいと思ったときは、世界範囲で世界一になるつもりでがんばりましょう。そのつもりでがんばって、はじめてこの範囲の世界一程度になれるものです。

ここの範囲で世界一というのもそう簡単ではないのです。

でも肩の力は抜いていこう。