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自身の迷いをここに書くことはおそらくない
yahooj-port
言葉の欠片
2009-05-05

自身の迷いを、ここのようなオープンブログに書くことは私はおそらくない。 個人の迷いなど、伝えようとしても伝わるものではないし、たとえ伝えようとしても「この人は迷っているのだ」ということがわかる程度なのが関の山だ。 結局のところ、自らが大馬鹿者であったのかどうかを他者に決められたくはない。決めさせたくはない。 自分が納得のいく結論に行き着くことが可能なのかどうか。行き着けると信じていないと先に進めないのだけは確か。行き着けるのかどうかが揺らいだときが「迷っている時」なのだろう。 もし仮に、私以外の他者が私に「私はこの道を行き着くことができるのか?」と問われたら、合理的には不可能と答えるだろう。それと同じ答えを自身に適用する気はない。したくない。(書いていてすごく傲慢であることに驚かされる) この選択は、すでにかなりの大昔に選択をした。私もすごく若くて、若いが故に切れがあり、若いが故に未熟であり、そして選択をした。 今、この選択を覆せば、それまでの全てが無駄ということになる。その意味では引き返せない。 しかし、引き返す勇気というのは確かにある。ゼロからの再出発は常に可能だ(失敗はなかったことにはできないが、取り返すことは常に可能) 私はまだ失敗したとは考えていない。少なくともなんらかの部分-解に行き着くに違いないと思っている。 のたれ死ぬかもしれない迷いを抱えつつ、今はまだ先に進む。 もう迷うべき歳でもないのだろう。もう迷って選択する歳はとうにすぎ、むしろ選択した結果が生み出すものが、芽を出すのか地に埋もれるのか、その結果を問われる時期なのだろう。 それとも数年後、これを見た自分が「ここで引き返す勇気」を見せなかった自分の愚かさを嘆く日が来るのだろうか。 結局のところ、自らの選択とその結果には納得しなければならないのだ。